ー2025年4月4日ー
はじめに
今回の対談に入る前、花帽子管理者・原は第1回で総合施設長:武田が語った内容を読んでいなかった。
武田は以下のように語っている。
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「ボクがここで過激に喋ることで『ここまで本音で語って良いんだ!』と職員の緊張感が緩み、タガが少しでも外れてくれれば津田と職員間のトークの内容もより一層に充実するじゃないですか? そうであるなら、ボクはいくらでも本音と真実を過激で赤裸々に喋りますよ」
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原は、事前に読んではいなかったけれど、武田の思惑通り、普段なら職員から津田に聞こえてくることもない声が届けられた。その声は、開幕ゴングが鳴り響いたと同時に、原から津田に向かって質問する形式で始まった。Fight!!
野田「じゃあ、そろそろ始めましょうか」
途端、原が堰を切ったかのように津田に質問を始めたので私は驚き、津田も意表を突かれた感じで第3回は始まった。
原「端的に言うと、津田さんのやりたいこととか目指している方向性がちょっと分からない時期があったんです。
特に、西日本集中豪雨で真備に水害とかあって、さつきアパートとかいろんなプロジェクトに取り組んでおられる頃ですね。当然、話す機会も少なかったし会う機会もほとんどありませんでした。
で、「ぶどうの家の理念」があるから僕たちはそれに従ってやっていけば良いんだな、というのは理解できたんだけど……。
今現在も、津田さんが何を目指しているのか?どういう方向に行きたいのか?」
|ぶどうの家の理念
1 とことん在宅にこだわる
2 自分たちの都合で投げ出さない
3 目の前のその人を支える
4 どんな風に暮らしたいか一緒に考え楽しむ
原「で、“ぶどうの家”グループ他施設の管理者たちと話す機会があったりすると『津田さんが目指しているのは一体何なんだろうね?』という声は現実にあったし、当時は外部からお客さんが来て『最近、津田さんどうされてますか?』と聞かれても応えようがなくて『真備の方で仕事されてますよ』と応えることしかできなかったですね。
最も、真備に居るのかさえも把握できてませんでしたけど。ここ最近は、隣の本家に頻繁に来られるようになったので話す機会も増えそうですから少しずつ理解できれば良いな、と思ってます」
@ここで2人、少し沈黙。
原「で、あの頃って実際、どういうことを目指していたんですか?水害関連に力を注がれていたことは想像できるんですけどね。災害があっても地域の人が変わらず過ごせるように!とか?会社の方向性としてはどういう方向で考えられていたのかな?と」
@ 津田はこの質問にしばらく考え込む。
津田「申し訳ないけど、あれこれ考える余裕はなかったなあ!もう必死だったから」
原「じゃあ、水害後ですけど少し落ち着かれた頃はどうだったんですか?その頃も必死だったんですか?」
@ 原からの直球に改めて、津田は考え込む。
津田「どうだったんかなあ?水害後、いつから一服感が出てきたかは曖昧だけど、兎に角ズウート必死だったと記憶してる。箭田(真備)の事業所についても会社の役員たちは『もう閉じろ』『閉じるだろう』と言ってたけど、私には閉じるという選択肢はなかった。というより、どうやって再建していくかの1択だけだったから本当に必死。
で、再建できたのが8ヶ月後。でも、“ぶどうの家”は再建できたけど利用者さんの家はまだまだ再建にはほど遠かった。じゃあ、その利用者さんたちが、どうやって元の暮らしに戻っていくのかなあ?とかを考え、いろんな人に知識を求め私も知恵を絞りだした。
で、あの時に思ったことは結局、災害が起きたときに利用者さんを守ろうと思っても“ぶどうの家”だけじゃ無理よなって。地域の助けがないと。で、地域ともっと連携取っていこうとか、地域の中に馴染んでいこうよとかは船穂で立ち上げた頃から言ってきたんよ。運営推進会議でも訴えてきたし、一軒一軒お便りを配って『これからこんなイベントもします』とか努力もしたなあ! でも、実際に災害にあってしまったら、もっともっと地域との連携、地域に馴染むことをしておかないとダメなんじゃなあ! と反省も後悔もしたわけ。
つまり花帽子でもね、ここにどんなお年寄りが住んでいて、どんなスタッフがいて、何を考えてここでやってるよ。というのを地域の人に知っておいてもらわんとね。すると気に掛けてもらえるようになる。こちらも地域のことが気に掛けられる。そういう関係性が築かれていないと災害時は普段よりもっと難しいと思った。それは、災害時だけじゃなくて日頃の暮らしにも繋がっているんよ。
例えばね、お年寄りが散歩してて挨拶ができる。子供達の入園式に呼ばれるとかね。他にもいっぱいあるなあ! そうは言ってもね、当時、船穂の皆に伝えられたか? 伝えられてないんよなあ! それと、丁度コロナも始まってからは職員会議もなくなりリーダー会議もできなくて。そんな事情で船穂と箭田の連携も少し滞ることになったんかなあ?」
原「その頃ですが、地域との関わりとかお年寄りの生活はもちろん大事なんですけど、会社の利益っていうものに関してはどんな風に考えられていたんですか? 地域との関わりであったり地域と繋がって助けてもらえるというのも数字に出ない会社の利益なんですが、職員の生活だったりを支える上での収益的な部分に対する考えは何かあったんですか?」
@津田が考えこんでしまう。
原「地域との関わりを深めていくという中で、そこにも当然お金が必要になっていくわけじゃないですか? 少なからず。そこで会社として、収益を上げるという意味合いからすると結果的にも総合的にも会社の利益にはなるんですが、金銭的な部分ではやはりマイナスになっていくところもありますよね?」
津田「あっ! 出費が増えるという意味? 出費かあ!」
原「出費を単にマイナスとは捉えられないですけどね。地域と強固な繋がりができたり皆さんから助けてもらえたりで、お金以上の価値があることも確かなんで否定はしないんですが、そこに対しての、実際問題のお金だったり資金についてはどんなお考えだったんですか?」
津田「さつきアパートは国の助成金だったりクラウドファンディングで調達して、土師邸も寄付とかで補ったんよ。もちろん会社のお金を入れた部分もあるけど、アチコチから助けてもらって成し遂げた感が強いかなあ!
でね、原くんからの答えになるかどうか分からないけどね、皆にも言いたいんだけど『真っ当にやろう』って世間では言うでしょ? 真っ当に事業をやってれば絶対に事業として成り立つ。そして、お金もそれに付いてくる。儲けだけを考えてやるんなら、それを私は真っ当とは捉えないけど、重複するけどね、真っ当にやらないと」
原「うーん! じゃあ、潰れちゃったり失敗した会社が全て真っ当にやってなかったのか? と考えると、そんなことはないですよね。一概には言えませんが、真面目にやっていても不景気であったりタイミングの問題だったりっていうのも当然ありうるわけで。そこの理念に従って真面目に一歩ずつでも頑張っていくというのは凄く大事。だけど、現実的部分のお金の話もやはり大事っていうことも思うんです。嗚呼! なんだかお金の話になってばかりで申し訳ないです」
津田「いえいえ、それはとても大事。でな、私がこんな感じだから全然お金のことを考えてないんじゃないか? と、皆が心配しとんかなあと思うてしまうんよ。だけど、一応は考えてるんよ。安心して!
例えば、グループホームを作るときも私はグループホームが必要だと思ったんよ。でも5室のグループホームを作るって言ったら反対されたわな。会社の役員はもちろん会計士さんにもね。『そんなん作ったら儲からんしえらいことになりますよ』って。ただ私の中では、イケルっていうのがあったので敢えてやったというのが事実なんだよね。
だから皆が心配するほど、私が何も考えてないということはないから、そこは安心してもらって大丈夫。それと今、段々に独立採算性に切り替えてきてるでしょ。花帽子は花帽子の中で経営を考えようとか、真備は真備の中で考えようとかね。それぞれの部署がそれぞれの部署でちゃんと独立してやっていけるようにっていう風に、徐々に舵を切ってる最中。なので、皆が育つ。皆が一緒に経営面でも考えていけるレベルに少しずつなったら良いなあ! と思っているので、そこはこれから私も楽になるかな? と。お互い、頑張ろうな!
@少し平行線気味で、ぼやけ感ありの質疑応答。でも、互いの言いたいことはシッカリ読み取れると思う。なので、原からの問い掛けはここで終了し、セオリーどおりに改めて進めていきたい。津田が原に質問する形で。
津田「さて、原くんの紹介に入りたいんだけど、原くんはなぜ、“ぶどうの家”に就職したんですか?」
原「ぶどうの家に就職したのは完全にタイミングでした。資格を取りに行ったときに、名称は介護職員基礎研修だったと記憶しますが、教えてくれてた先生が“ぶどうの家”を知っていて『あそこ良い施設だよ』と紹介してくれたことが切っ掛けでした。28歳だったと思いますが、今から13年ほど前になりますね」
津田「良い施設だって言ってくれたんだ。それは、私たちが真っ当にやっていることへの回答だよね。で、28歳になるまではどんな生活?」
原「大学から上京したんですが東京農業大学へ行きました」
津田「それは農家になりたかったの?」
原「そうじゃなくて生物関係の方面を勉強したかったんですよ。農業大学って“生物なんちゃら学科”とかありますから。結果として農学部ではあったんですが、研究室は昆虫関係でした。例えば、タマムシとかの色素なんかを利用した素材。見る角度で色が変わるみたいなヤツだったり他、生物そのものの生態学を追求していました。もっとも、昆虫が大好きでというわけでもなく、なんとなく感もありましたね」
津田「興味深いね! で、就職?」
原「大学を出て正社員としての就職はしなかったんですよ。もちろんバイトはしてたんですけどね。いろいろやりました。で、最後は超高圧洗浄で壁をはつる仕事にチャレンジしたんですが、凄い音で一発で耳が赤くなり、耳鳴りも酷くて退散しました。そこで実家へ戻るに至るんです」
野田→原「話の途中すみません。東京農業大学といえば学生が踊る“大根踊り”が超有名ですが、原さんも踊りました?」
原「箱根駅伝でも必ずテレビに映りますよね。だけどボク、オリエンテーションで1回踊っただけです。皆が皆、踊るわけではないので」
津田「そんな原くんが岡山へ帰ってきて、なんで介護の世界なの?」
原「介護の世界っていうのも、ある意味、打算的部分もあったんですよ。介護は人手が足りないことは把握してましたから、入ってしまえば“食いっぱがれ”はないだろうと。だけど、なんにしても資格が必要だよね。というわけでハローワークへ向かったんです」
津田「そうなんじゃ。でも、一般的な大学を出た男の人が介護の世界に飛び込もうとしたら抵抗がかなりあるんじゃない? 3Kとか悪いイメージが先行したりすることもあるでしょ? それでも飛び込もうと決断したのには、なにか理由が?」
原「高尚な理由ってないんですよ。正直『介護ってあまり儲からないよ』『汚いよ』とか言われ、介護事故とか虐待なんかのニュースも観ますよね。更に、悪い表現になりますが、底辺職と偏見の目で見る人がいるのも事実です。だけど、介護そのものは絶対に必要なものですからね。とはいえ介護って、資格は必要だけど、特別な技術という意味合いではハードルは高くないと思ってます。つまり、介護って専門的な技術よりもお年寄りに寄り添う気持ちとかが大切だったりしますよね。なので、そういう意味では自分に向いているな、と理解も納得もして入職したんです」
野田→原
「『介護って専門的な技術よりもお年寄りに寄り添う気持ちとかが大切だったりしますよね』という発言がありましたけど、それは介護の世界に入る以前、介護の資格を取る以前からあったものですか?」
原「そうです。以前からです。元々、おばあちゃん子だったんで」
津田「そこ、大きいよね。原くん、スッゴクお祖母ちゃんを大事にするもんね。だけど、実際、この世界に入ってどうだった?」
原「この世界に入ってみて? “お年寄りってお年寄りなんだな”というのが実感です。
もちろん、分からなくなっちゃってるっていうのもあるんですが……。嫌な話になっちゃいますけど、人間的な意地の悪さだったり、汚れだったり、精神的な面での悪どい部分であったりとかを持たれてます。良い部分も当然あるし、多くの経験を積まれてきて優しさも備えてる。
そんなこんなを抱えて、認知症になったり身体が不自由になったりしてるんだなということがとても理解できましたね。綺麗な服を着てニコニコ笑っているお爺ちゃんに、介護士さんも笑顔満載で食事介助している。そんな絵に描いたようなパンフレットが溢れてますが、そんな現実はないんだよなって」
野田→原「狡いんですよね!」
@3人で大笑い。
原「狡いですね。これ、分かってやってるよねって」
津田「私は面白いけどね」
原「面白いって思えるまでには時間が必要ですね」
津田「原くん、けっこう苦しんでたから。そういえば、花帽子ができるときの研修は面白かったよね。いろいろやったけど、原くんだけ紙パンツにオシッコ漏らしたよなあ!」
原「そうなんです。『紙パンツへ実際にオシッコしてみろ』って研修で。ボクだけやって漏れてしまった。皆の前で尿漏れ」
津田「あれは、今でも語り種よ(大笑い)。で、今は管理者としてやってるけど、どう? 新人さんから今に至って?」
原「根本的には変わってないですね。お年寄りも人間なんだよね、と同時に職員も人間なんだよねって。で、この人たちをまとめて管理して、極端な話、言うことを聞かせるって能力は自分にはあまりないんだろうな、と思ってます。逆に、受け入れて、どう活かすのか? って部分なのかな。どうしたらフォローに入れるのかな? って方が自分には向いてる気がします」
津田「あのね、私は原くんといつも一緒にいるわけじゃないけど、原くん苦しんでるなあ! とか思うんよな。で、私からの提案なんだけど、その苦しんでいる姿をもう少し職員たちに見せたら良いのにって思うんだけど? だって完璧な人間なんていないし、原くんみたいに自分は管理者に向いていないんだよって言う人の方が向いていると思うよ。でもそれは、無理するんじゃなくて『自分、こういう所が弱くって、こういう所ができなくてダメだから皆さん助けてよ』って言えたときに初めて管理者になれるんじゃないかなあ? って思うんよ。原くんは今、その一歩手前で苦しんでるんだろうなあ? って気がするんだけど……」
原「ウーム? その苦しんでる姿を見せる、という見せ方が分からない。単純に弱音だけを吐くなら簡単でしょうけどね。もちろん、曝け出すということにも抵抗はありますけど、どう見せたら良いの? というのも全く想像できません。ただ、シンドイっていうアピールだけなら大丈夫でしょうけど? これはダメでしょ」
津田「そうなんよな。それだと我儘だけ。でも、原くんって、困っているときほど強がるように見える。そんなときは鎧で身を包んでる。それが逆効果なんかも? 鎧の脱ぎ方が分からない?」
原「分からないですね。鎧を着ているということも良く分からないです。自分の中での感覚では、ないですから。すごく苦しんでる、と言われてもピンと来ませんし、大変なのは大変なんだろうけど、そんなに自分は大変なのかな? ってのもあるんです。ただ、自分の本心を曝け出すというのは苦手ですし下手くそだと思います」
津田「職員たちと喋るのが難しい?」
原「相手のことを知ろうとはしますが、自分のことを教えようっていうのはあまりないですね。苦しんでるとか言われても、今に至るまでこの生き方で来てますから当たり前といえば当たり前で、ボクには普通なんですよ」
津田「そうなんだ。どうやったら原くんが、裸の自分を見せられるようになるか? 考えてみるけど、そういう原くんがいるから職員さんも原くんに喋りずらいのかもしれんね? だから、情報が原くんのところで止まるとか? 原さんに言ったけど、そこから他の職員に伝わっていかない。っていうのがあるのかもね? だけど、どうアドバイスしたら良いのか今直ぐには分からないので私の宿題にします」
最後に
実は対談の最中、原が何度も職員から呼び出され中座を繰り返した。聞くと、入居者さんの1人が腹痛を訴えた。ただタイミングも良く、訪問診療の日で医師もおり胆嚢炎の可能性ありとのこと。入居者さんご家族とも相談。結果、近くの病院へ救急搬送することになり管理者である原は大忙し。とはいえ、原は一言ひとこと丁寧に質問を繰り返し、津田からの質問にも分かりやすく答えてくれた。最後の最後に付け加えるなら、原は独身。プライベートな時間はゲームに没頭しているそうだ。
追伸
原が疑問に感じていた西日本集中豪雨からその後の頃について、私も水没後の“ぶどうの家”を取材している。さつきアパートについても触れているので、以下に貼り付けておきたい。興味ある方はご一読を!
<2021年夏号 ベターケア掲載記事から抜粋>
長閑な田舎町・真備町が全国に知れ渡ったのは2018年7月。西日本集中豪雨で近隣を流れる小田川などが決壊し、真備町は大洪水に飲まれ水没。町内だけで51人が犠牲となった。この中には、ぶどうの家の利用者さん一人も含まれていた。もちろん、平屋である“ぶどうの家”も屋根の最上部を残し沈んでいる。
“ぶどうの家”代表の津田由起子さん56歳が当時を振り返る。
「もう3年が経ったんですね。でも、10年が過ぎ去ったようにも思えるほどにいろんな事があり超特急で駆け抜けてきた気がします。当時、周囲からは『津田さん、ぶどうの家は閉めるんでしょ?』という問い掛けも多くありました。借地で水害保険にも加入してましたから、そのまま閉じてしまうのが最も楽な手段ではありました。とはいえ、閉める、という選択は全く脳裏を過ぎらなかったんです。利用者さんで家を失った方も少なくなかったですし、この人たちと一緒に生きなければ、しかありませんでしたから」
事実、津田さん宅は被災していないにも関わらず、被災当日から利用者さんたちと、近隣ではあるものの被災を逃れた薗公民館で寝起きを共にすることになる。その後、建て直した“ぶどうの家”でも家族のように生活を共にしてきた。
そして昨年、2020年6月6日。サツキプロジェクトから産まれたアパートがオープン。この2年間、寝起きを共にしてきた利用者さん3名もアパートへと移り、津田さんの共同生活も終止符を打った。
となると、サツキプロジェクトとは?
“何があっても「ただいま」と帰ることができる地域を、みんなでつくるプロジェクトです”
とパンフレットの冒頭にある。プロジェクトについて詳細に記す紙幅はないので被災後、アパートに新たに設置されたスロープについてのみ記すと、
“車椅子など、体に不自由があっても逃げ遅れることなく避難できるよう2階まで続く大きなスロープを設置しています”ともある。このスロープを使って水害緊急事態には2階へ避難するわけだが、このアパートに入居する人たちは、近隣住民の避難所であることを承知して入居する。つまり、我が部屋を開放することになるのだが、今、真備町では“お互い様”が合い言葉になりつつあるとも聞いた。
さて、ぶどうの家からアパートに移ってきた利用者さんは3名。片岡澄子さん84歳。日野せつ子さん73歳。三海友子さん89歳。三海さんと日野さんは同室で暮らすも部屋は別々。片岡さんは一人暮らし。この片岡さんにアパートの居心地について聞いてみた。
「ここに来て今日(6月7日)で丸一年が経ちました。今日が1週年記念日なんです。他の人より一日早く入居したんですけどね、私だけ。『一人だけじゃ寂しいじゃろ?』とか心配の声も少なからずあったんですが、そんなことは一切ありませんでした。
ここに来て良かったことですか? それはトイレです。他の人に気兼ねしないでいつでも出来ます。お通じに他様より時間がかかるので、どうしても次の人がいるんじゃないか? トイレに入っても気掛かりで仕方ありませんでしたから。独り。最高です。お風呂は週に2回、ぶどうの家で入ってきます。以前は週に3回通って入っていましたがコロナで週2回になってます。でも、ここは本当に有り難いです」
とはいえ片岡さん。水没した我が家が着々と復興中。9月には棟上げ。年末には完成との吉報を、別れて暮らす息子さんから知らされた。来年の正月は、新しい我が家で迎えることになる。
もう一組。中本昭彦さん74歳 きぬよさん72歳ご夫婦を紹介する。きぬよさんがぶどうの家の利用者であり要介護度5。もちろん被災日もそうだったが、中本さん宅も水没。2階建てではあったが、5メートル30センチの高さまで水はきており2階へ垂直避難しても無駄であったことを後々気づく。昭彦さんが振り返る。
「逃げる気はなかったんですよ。ただ、娘とかが心配して直ぐに逃げろと携帯に何度も言ってくるんで車で出ました。午前2時頃に家を出て高台で過ごしていましたね、家内と。明るくなって家に向かって降りてると我が家の屋根しか見えないじゃないですか? ここで、大事であることに気づいたんですが、持っている物といえば免許証に携帯。それと家内のオムツだけでした」
その後、施設入所やら紆余曲折を経て今に至るのだけれど、被災から今日までの3年間、常に夫婦一緒だったとのこと。夫が妻の手を握りしめる。昭彦さんに照れなど微塵もなく、今、ラブラブ夫婦として謳歌中。
最後に、サツキプロジェクトについて少々。このプロジェクトは国土交通省から“人生100年時代を支える住まい環境整備モデル事業”の選定を受けている他、今年3月、第25回防災まちづくり大賞の消防庁長官賞にも輝いている。この長官賞を選定した選定委員の言葉が、ぶどうの家代表である津田由起子さんを的確に現しているので一部抜粋して締め括りたい。
「以前から高齢者事業を手掛け、豪雨災害でサービス利用者の一人が浸水した住居内で亡くなったことに心を痛めた津田代表の熱意が、大学教員や建築家、行政、近隣住民の協力を引き出し実現した」