ー2025年2月15日ー
かなり長い前書き
ーーー私、野田明宏と「ぶどうの家」
初めて「ぶどうの家」を訪ねたのは2009年7月8日だった。
誰からの紹介なのか?
なぜ存在を認知したかは記憶の外だが、私が立ち上げたHP内に“介護の現場を歩く”というページを作り、そのトップバッターに登場してもらったのが倉敷市船穂町にある「ぶどうの家」だった。
タイトルは“グループホームぶどうの家”。かれこれ16年前のことになる。
当時、津田(各個人の敬称は省かせてもらいます)は若々しく、一見、欧米の血が混じっているのでは?
という容姿で驚かされた記憶がある。
武田はまだ入職2ヶ月目だった。少し会話をしたが「面白いことがやりたいですねえ!」と言いながら、利用者さんとドライバー等で箱を弄っていた。その表情がスコブル楽しそうだったのが強く印象に残っている。
時空は飛び2018年7月6日~8日にかけての西日本豪雨。倉敷市真備町箭田にある「ぶどうの家」は氾濫した川の水で屋根まで浸かった。結局、建て替えることになったのだが、この最中、というか、豪雨災害当日から家を失い住む所を失くした利用者さん数人との共同生活が始まった。付け加えれば、津田と武田の自宅は被害地域外で損傷なし。
最初、津田と武田は近所の公民館で利用者さんと寝起きを共にし、箭田の「ぶどうの家」が再建されてからも施設内で同様の生活に変化はなかった。
私は、再建された箭田の「ぶどうの家」から新たに取材をさせてもらい、介護雑誌にも掲載させてもらった。共同生活は2年という長きものだったが、津田と武田には同志愛のような絆が構築されているようにもみえ、少し羨ましかった。
その後、何度も足を運び、職員が100人弱という大所帯になっている今をカメラに収めさせてもらっている。順風満帆のように見聞していたのだが。。。
ある時、津田、武田、私で武田が運転している車に同乗している時だった。武田が津田に意見し始めた。かなり強い口調で武田が津田を追い込んでいるようにも聞こえてくる。
津田は三喜株式会社ぶどうの家代表取締役。武田は三喜株式会社ぶどうの家総合施設長。立ち位置は津田がトップで武田はNo.2だ。職員間では、社長、副社長と呼称する職員も珍しくない。
私は内心ドキドキしていた。
“親しき中にも礼儀あり” “親しすぎるも不破の元”
という言葉が脳裏を過っていた。
しかし、これは全くの杞憂だった。二人の絆は、私が想像していた以上に強固なものだったのだ。
その詳細については、以下に始まる新企画「津田由起子と天晴れ本音トーク(仮題)」で詳しく記している。
今後、一般職員方々に登場してもらう。利用者さんからの苦情登場もあるやもしれないが、新企画のトップバッターは総合施設長:武田直樹で幕開けすることになった。
イメージとしては、
津田由起子vs武田直樹
だろうか?