ぶどうの家の想い


歴史と理念

考えるより動こう/黎明期(1996年~)


199610月、同じ職場で働いていた3人でぶどうの家を立ち上げました。
在宅で踏ん張っている人たちと共にありたいという思いでした。
しかし、介護保険も始まる前のこと、13,000円の利用料だけでは成り立ちません。

ぶどうの家の通帳の残高
2,000円という月も、多々ありました。

軽トラに支援者の方々から寄付してもらったものを積み込んで、
フリーマーケットに毎週通って家賃や水道光熱費を工面していました。

お金がない人手がない、ないない尽くしの日々でしたが、
応援してくださる方の想いと利用してくださる方々の笑顔はたくさんありました。

けれど、やせ我慢は続きません。

もう閉じようとご利用者さんを他所のデイサービスの見学にお連れしました
Aさんが死ぬまでは続けよう、もうそんなに長いことではないだろう」
と話し合ったのです。

そしてこの方が亡くなって第23Aさんが現れることになり、
2000年介護保険が始まったのです。

介護保険のサービスを自分たちがしていることに当てはめると、
デイサービス、ホームヘルプ、居宅介護NPO開設の準備を進めていた矢先に
私の父が亡くなりました。

父は母と二人で小さな有限会社を経営していたのですが、
父の葬儀に集まった親戚や関係者から父の残した会社を継いで
ぶどうの家の運営をすることを勧められました。

父の会社は三鬼有限会社・・・3人の鬼・・・福祉にはイメージが大切でしょう・・・
ということで、読み方は同じですが漢字を変えて三喜有限会社と改名しました。

 

本人の暮らしとともに/発展期(2000年~)


介護保険が始り通所介護の指定を受け、利用しやすくなったと
たくさんの方からご紹介があり
ご利用者さんも増えていきました。
(「通い」)


 
当時、岡山県のデイサービスでは、夜間の泊り認められていませんでした。
あるご利用者さんが1週間のショートステイから帰って来た時に
「あぁ、ここ、ここ、ここじゃ」
と言葉を発せられました。
(「通い」+「泊まり」)




ほとんど喋られないその方の第一声は私たちの心に強く刺さりました。
ごめんね。見たこともない場所で、会ったこともない人たちの中で、
言葉も通じなくて本当に不安だったんだねと謝りました。

 

それから、私たちのところで泊まる方がいい方は、
行政には内緒でぶどうの家に泊っていただくことにしました。
やがて、自主事業の泊りも認められるようになりました。

 

また、デイサービスに来ても車から降りられない方もおられました。
弁当をもって家にお送りし弁当を前もって予定を立てて利用するという
介護保険サービスでは難しいのです。(「通い」+「泊まり」+「訪問」)

一人暮らしのBさんはある日自宅で転倒し腰を痛めました。
トイレに行くこともままならず、動けるようになるまで
りをしてはどうかとお勧めしました。
1週間が過ぎ何とかトイレに行けるようになっても
ご自分からは「帰る」という声は出されませんでした。


しびれを切らせて私からもう帰ったらどうかと声を掛けました。
すると「私はもう帰らん。ここに居る」と言われるのです。
ご自宅に思い入れのある方でしたので、驚きました。

この方が毎日泊まり住み着くことになったので、
この方のために5床のグループホームを作りました。
(「通い」+「泊まり」+「訪問」+必要に応じて「住まい」)

身寄りのない方でしたので、冬こたつに入って“Bさんに
もしものことがあったらどうしたらいい?

お聞きしたことがあります。

Bさんはみかんを食べながら「私の骨はぶどうの家の庭に埋めて」と言われました。
笑いながらの一言でしたが、今のことだけでなくその方の亡くなった後にも
深く関わらせていただいているという覚悟を新たにした場面でした。

 
そんなBさんの体力も落ちて来て横になって過ごす時間が増えてきたころ
Bさんが「サーカスに行きたい。死んでも本望じゃ」と言われました。
岡山の会場に行くだけでも1時間弱の移動です。

さらに暑いテントの中で無事過ごせるだろうか・・・。
職員みんなで悩みましたが、気温以上に熱い職員たちの想いに支えられ
Bさんはサーカスを見に行ってきました。
Bさんの枕元には嬉しそうな写真と新聞の切り抜きがありました。


1月後Bさんは、グループホームとデイサービスのご利用者や職員に見守られながら
静かに息を引き取りました。
私の後悔は、Bさんが腰を痛めた時に簡単に泊りを勧めてしまったことです。


あんなに家にこだわっていたBさんなのだから、ご近所で気にかけてくれる方は何人もいたのに
その方々に一言“Bさんをお願いしますと頭を下げていたら、
もう少し家で過ごせたのではないかと思うのです。

在宅にこだわるための視点が私に欠けていたことを反省しました。(本人のこだわりにこだわる)
 
Aさん、Bさん、Cさん、・・・たくさんの方との出会いで育てていただいています。

介護から福祉へ/転換期(2012年~)


家で踏ん張ってきている方々も、お付き合いが始まって10年を過ぎると、
予想外のことも起きてきます。

例えば、サービス付き高齢者向け住宅にお住いの方々の中に火事で家をなくされた方もあります。

「私はここで生まれ育ったのです。私にはこの家を守り伝える使命があるのです」と

一人暮らしを続けCさんは常に仰っていました。

私たちもその言葉を大切に、家での暮らしを支え続けようと職員一丸となって頑張りましたが、
真冬の夜中にベッドから離れ床に転んでいても、ご自分では電話もできなくなりご家族が「限界」と判断され、
花帽子に入居となりました。

その日からCさんのご自宅は花帽子となり、自宅さながらに物がありCさんは自由に暮らし、
助けがほしい時には、カレースプーンで床を鳴らし職員が駆けつけるという安心も手に入れることができました。


こんなふうにBさんのためにグループホームができ、サーカスに行ったBさん。荒木さんです。
別のCさんのためにサービス付き高齢者向け住宅花帽子ができたのです。

ですから、グループホームやサービス付き高齢者向け住宅が、
その方にとっての心地よい居場所であり自宅となるように、
職員は『在宅にこだわっています。

そして、最期まで支えたいという看護職員の希望で訪問看護ステーションができました。

ぶどうの家は第23Aさんのために新たな事業に取り組み、その結果現在のような事業形態になりました。
(「通い」+「泊まり」+「訪問」+必要に応じて「住まい」+医療(看護)」)

私たちのまちは私たちが考える/第2黎明期(2013年~)


運営推進会議の中で問題となった地域課題に取り組んだ結果がNPO法人の立ち上げになりました。 
真備にも小規模多機能があったらなぁという声を受けて、
平成26年の元旦に船穂と隣の真備町に小規模多機能ホームを立ち上げました。

 

当然のことですが、登録されている方だけでなく、ご近所の方の見守りやご相談にも乗ってきました。
祝日の近所の方から「介護の事業所が休みなんだけど困っているから来てほしい」と電話があ
訪問することもありました。認知症で歩き続ける方の見守りを地域の方と一緒にしました。

 

こうやって、地域の方と一緒に認知症や障害があっても、
家で暮らし続けることができる町にしたいと思っています。
(「共生」:「地域」でともに生きる)

ともに生きる共生へ/成熟期(2016年~2019年)


船穂町(地元)在住の職員が、子どもたちのために駄菓子屋がやりたいと発案があり
駄菓子屋 菓々子(かかし)オープンしました。  

職員から地域の保育園がいっぱいで入園できず、
仕事に復帰できないから社内に保育園が欲しいという声があり、
「企業主導型保育園ーぶどうのたね保育園」を開所しました。
「高齢」+「子ども」)

ぶどうの家の理念である、「目の前のその人を支える」は
利用者であるなしに関わらず職員や
地域の声も

お聞きし必要な取り組みをしていくということです。

ですから、船穂町では移動の手段がなく苦労している方が多いので、
福祉有償運送を始めまし
た。

また、船穂町の店が次々に閉店し買い物に行くことができなくなりました。
そこで、食事をして買い物に行こうというプログラムを立ち上げました。
 (「共生」:「高齢」+「子ども」+「移動支援」)

 


これらは、まったくの非営利な地域活動なのでそれらを行うために
NPO法人ぶどうの家わたぼうし」を立ち上げました。

水害が教えてくれた実践力/受難期(2018年~)


そして、平成30年西日本豪雨で小規模多機能ホームぶどうの家真備は被災しました。
行き場をなくして私たちは町の方々と一緒に薗(その)公民館分館で避難生活を4か月行いました。
 

この時、事業所が水没しどうなるのかもわからない中で、
ぶどうの家のご利用者以外の方のお世話もし24時間張りつめて過ごす日々の中でしたが、
職員から「自分たちはぶどうの家の理念を実行するだけ、間違っていない」と言ってくれました。

 

私が真備で奮闘している間、「船穂の事業所もみんなで踏ん張ってくれました。
だから、ぶどうの家真備は被災から8か月で再建できました。
 

今、ぶどうの家ではどんな方が来られても支えられるという思いがあります。
家に居たいという本人やご家族の気持ちが大切ですが、職員は本人やご家族ととも
在宅を支えようという覚悟をもっています。



被災後薗公民館分館で4か月を過ごした後、BRANCHに移りました。
ここに移ることができたのは、それまでのぶどうの家の活動を評価してくださった方々の
ご尽力によるものでした。

 

被災後、人と人とのつながりが必要と考え、サロンや集い勉強会など様々な取り組みを行いました。
この建物は現在も地域の福祉の拠点となるように活動を継続しています。



被災後真備町外に避難されている高齢者が真備に帰ってこれるようにとの思いから
居宅介護支援事業所を立ち上げました。

わたしたちの思い(現在~)


水害とともに発展してきた真備町を安全で安心な町にしたい、水害で命を落とす人のいない町にしたいと、
専門家や地域の方々の思いととも「避難機能付き共同住宅さつきPROJECT」の取り組みも始まりました。


この度、ホームページを作成するにあたって、ぶどうの家の事業を振り返ることができました。
たくさんの職員やたくさんのご利用者ご家族、地域の方々関係者の皆様に助けていただき、
よちよち歩きのぶどうの家がこんなに大きくなったのだと実感しました。
 

その時々の目の前のその人々のために、さまざまに形を変えてきました。
3人で始めたぶどうの家ですが、今は総勢90名の職員になりました。
法人格も株式会社とNPOの二つになり、事業形態も増えました。


開設以来ぶどうの家が大切にしていること

・自分たちの都合で投げ出さない
・どこでどのように暮らしたいのか一緒に考え楽しむ

・目の前のその人を支える
・在宅にこだわる


令和
310月でぶどうの家は開設から25年になります。

「私は、介護保険事業所がやりたいんじゃなくて、ぶどうの家がやりたいんです」


と言った初心を常に忘れず、規模や種類よりもむしろ「誰とするか」「何をするか」を
ご利用者、地域、職員と一緒に考え、行動し
ていきます。


そして、これからも楽しいことにチャレンジしていきます。