ー2025年3月24日ー
はじめに
鈴木の場合、ぶどうの家の看護部長という肩書きとともに、訪問看護に携わりながら、訪看に併設させている『ぶどうのたね保育園』の園長。そして、これも訪看に隣接する『駄菓子屋』を運営する“おばちゃん”という3つの顔を持つ超多忙の管理職であることを先に触れておく。
津田との対談の日は鈴木の次女が高校受験日。正に、次女が受験に立ち向かっている最中だった。鈴木も次女の奮闘を祈りながら津田のインタビューに応えていたが、長閑で穏やかな、とても和んだ時間が過ぎていった。
津田「真由美さんが、ぶどうの家に入職したのはいつ頃だったかなあ?」
鈴木「下の子(次女)が2歳の時なんですよ。その次女が今日、高校の受験日なんですけど、私、なんかドキドキしてるんです今。次女はもうすぐ16歳になりますから、かれこれ14年間もお世話になってます」
津田「うわー お受験頑張れ! だね。14年かあ! 長いねー。で、その頃の『ぶどうの家』は本家だけだったんかな?」
鈴木「小規模多機能居宅介護(旧本家)が今の本家に移るときでした。
他にも引っ越しがいっぱいありましたけど、『ぶどうの家』の変換期。どさくさ紛れに入職した感じでした。
旧本家は消防関連他の事情で新しく建てた黒色の平屋に移行したんです。だから今、平屋が本家と呼ばれてるんですが、訪問看護ステーションは旧本家の2階にあったんです。
それがね、本当に臭かったんですよ。一番最初に訪看を立ち上げると言ったとき、場所がない、資金がないで、結局、空いてる所が旧本家の2階しかなかったんです。でもね、ネズミが出るんですよ。1階で駄菓子屋をしてたんですが、そこにネズミが出入りして。餌がありますからね。更にですけど、1階に厨房があって花帽子(住宅型有料老人ホーム)の食事を作ってました。油の匂いが服にこびりついて、最初の日、帰宅すると主人から言われました。『どこで働いてきたん? 中華料理屋さん?』って。」
[Data]
ここでは分かりやすいように“旧本家”と記しているが、実際、旧本家と呼称している職員は誰もいない。今、ここはベトナム人実習生の宿舎となっている。
津田「訪問看護を真由美さんが始める前は、本家で働いてたんよな?
次に花帽子でやって、その最中、花帽子の入居者さんを最期まで支えられるように!
という想いで訪看を立ち上げたんよな?
だけど、その訪看の事務所の場所がなくて、古い家だった旧本家の2階に白羽の矢をたてた、という経緯だったね」
鈴木「だから毎日臭くて、今振り返れば酷い労働環境でした(大笑い)。ネズミも自由往来の如く、走り廻ってましたから」
津田「で、結局、花帽子ができて比較的早めに訪看を立ち上げたい、となったんよね?」
鈴木「そうなんですよ。私が来たときから医療は置き去り感が漂っていたので、これじゃあ最期まで利用者さんは花帽子で過ごせず病院へ行くんだろうな? と想像したので、そこからでした」
[Data]
訪問看護ステーションぶどうの家 天使のおくりもの開所日
平成27年3月1日
ぶどうのたね保育園開所日
令和1年11月1日
津田「ところで、真由美さんが駄菓子屋をやろうとした切っ掛けは、なんで?」
鈴木「一番は、私の仕事が忙しかったので、子供の遠足のお菓子を買いに行く時間がなかったということが発端でした。
それと、船穂町に子供が集まる場所というのがあまり無かったので駄菓子屋をオープンすれば子供たちの遊び場、集い場にもなるんじゃないかなあ? と。
そして、地域と私たちが繋がれるんじゃないか? と思ったんです。事実、幼稚園のお母さんたちともそんな会話で盛り上がってたんです。『あったら良いよね!』って」
津田→野田「真由美さんは船穂に住んでいるので、地域との繋がりも創りやすかったりするし、『ぶどうの家』と地域を繋ぐkeyになってくれる人だったりもするんです。で、訪看にしても、保育園にしても駄菓子屋にしても、私がさっぱり分からない世界を手掛けてくれる人でもあるんです。つまり、真由美さんには負んぶに抱っこ状態で頼りっきりなんです」
津田「そうそう、じゃあ保育園はどうして?」
鈴木「保育園は、とても単純な理由なんですが、訪問看護で働いてくれる若い職員が欲しかったということです。子供を預けれないから働けないという看護師さんも多かったし、そういう看護師さんたちが来てくれて力になってくれたら良いなあ! ですね」
野田→鈴木「ここの園の子供たちは、三喜株式会社『ぶどうの家』グループ職員さんたちのお子さんなんですか?」
鈴木「職員さんの子供たちもいるし地域の子もいます。19人の定員なんですけど、半分は地域枠で半分が企業枠(三喜株式会社)なんですね。なので、企業枠のお子さんは優先的に預かりますが、19名中9名は地域枠なので地域のお子さんを預かりつつ企業枠に余りがあれば、特別な措置で地域のお子さんも預かります。書類が必要になりますが、そこらは臨機応変です。
訪看の職員の子供を2人預かってますし、企業内職員のお子さん2人も含めて企業枠に4人のお子さんがいます。最初は、ここの訪看の看護師職員をどうやって集めるか? だったんですが、企業に若い職員が入ってくれると全体的に活力も湧きますからね。
なので、子供を預けながら安心して働ける環境を創る。それと時代もあると思います。
今、認可の保育園になかなか入れない現実があります。その入れない人たちの受け皿にもなれますから。
皆さん、やはり認可保育園に預けたいですからね。とにかく、医療でも介護でも若い力がないと先細りですもん。
津田「産んで以降、働けないというのは本当もったいないよな」
鈴木「介護の楽しさだったり看護の楽しさだったり、若い職員の間にも広がっていったら素敵じゃないですか。
訪問看護って特殊なんですよ。看護師さんって、若い子は病棟で働きた人が多いんですよね。
大きい病院で働きたい。で、在宅の場面って経験がない職員は入りにくかったり、そして最初の時点で『エッ!訪問看護』ってなってしまいがちなんですよ。
なぜって、大きい病院の方が安定してるとか、授業で習ったことがそのまま活かされる。モノも全てあるわけですよ。それと、若い人たちはいろんな経験がしたいんだけど、在宅ってモノがなかったり医師がいない所でやっていくんです。
病院の場合、先ずモノがある。医師はいる。なにかあれば直ぐに対応できる、という三大条件が揃ってるんですね。
でも在宅って、重複になりますがモノがない、医師はいない。それに自分たちで考え、自分たちで判断して電話なりで医師に報告し、そこで医師から指示を仰ぎ、有るモノのなかで動くしかない世界なんです。
だから、基礎がないと、経験を積んでないとなにもできない世界なんです。更には、自身で全てを抱える事になるので責任も重くストレスも強い。病院の病棟のように、詰所で先輩、後輩、同輩看護師や医師と共有しながらではなく、単独、独りですから」
じゃあなんで訪問看護してるのかと聞かれると、やはり家で過ごしたいと思う利用者さんを支えたい、笑顔をみると幸せな気持ちになるからかもしれません。
その上うちの訪看スタッフはみんな仲がいいんです。友達とは違ういい距離感を保ちながら、でもお互いを思いあいながら、子供や家族の事も大切にしながら働いてます。
[Data]若い看護師たちは一旦、兎に角、病棟で最先端の医療の中で経験を積みたい。ということは理解できる。ただ、病棟看護師から訪問看護師への道を選択する適齢期というか適応期のような時空間と出会うことが一種の別れ道になるのかもしれない。
鈴木「私の場合、病棟勤務している頃、退院していく人たちはこれからどうなっていくんだろうな? 自宅でどうケアされるんだろうな? という疑問はありました。
私は最後に小児科だったんですが、退院時、1歳とか2歳の子が呼吸器とか装着して帰っていくんですよ。そのとき、この子たちってご両親、一般的にはお母さん中心で育てていくんでしょうけど、どうやって家で育てていくのかな? ケアするのかな? という疑問が在宅を意識した始まりでした。
病院は緊急時とか外来での対応はやりますが、普段の家での生活には関わらないですから。このとき、私はまだ子供を授かっていませんでした。結婚はしてましたけどね。
その後、子供を産んで看護師に復帰するときに、大きい病院に戻るかとなると私の家族、特に子供のこともあるし通勤時間も考慮しないといけないので選択肢から外れました。で、近所に良いところないかなあ? すると、在宅系があったんです。『ぶどうの家』の求人が!」
津田「でも、最初、行き先を間違ったんよな」
鈴木「そうなんですよ。面接に行くと『ここは違うよ』と言われて。焦りました(大笑い)。そんなこんなで手探りの在宅始動でしたが、今は在宅沼に入り込んで抜けられません」
津田「で、在宅やってみて具体的にどうでしたか? 興味があるから始まって」
鈴木「最初は小児を看たかったという想いが強かったので、正直、かなり戸惑いました。別にお年寄りが嫌なわけでもなく、やればできるんです。ただし、介護となると医療の視点とは大きく異なるので、自分の常識が常識ではないところで、私的にはもっとこういうところを気をつけて診て欲しいけれど、暮らしの中ではそこじゃなくて違うところに視点がいくことへのギャップは強かったです。
『嗚呼 在宅でこのままいけるかな?』と不安に思ったりもしたけれど、子供が小さかったので、もう少し自分なりに頑張ってみよう。結果、自分の中で受け止めきれなかったら、また病院へ戻ろう。と彷徨いながらもなんだかんだで3年くらい続いたんですよ。そうすると、介護と看護の折り合いもつけられるようになり今に至りました。ある意味、子育てをしながら、無理せずの環境が良かったのかもしれません」
津田「ところで、『ぶどうの家』に来て一番印象に残っている利用者さんって誰?」
鈴木「在宅という視点で、ウワーと思ったのはHさんですね。『在宅って、こんな感じなんじゃ!』っていう典型がHさんでした」
津田「そうそう。確かに、Hさんは“家を貫く”人だったなあ!」
鈴木「Hさんはパーキンソンの方だったんですけど、ベッド ポータブルトイレ 椅子があって、全てがその部屋で完結してるんですね。部屋の間取りは6畳くらいかなあ?
なんとか突っ張り棒を探りながらポータブルトイレへ行っていた頃から私が関わらさせてもらいました。看護師としてではなく、小規模多機能介護スタッフの介護員として伺ってました。で、ベッドサイドに何本か突っ張り棒のようなモノが立ってて、そこを持ちながら移動されるんですよ。
でね、私の感覚では『ここまでなっても在宅に拘るんじゃ』っていうのが最初の印象でした。強烈でした。
普通なら施設入所。家族もいない。で、私からすれば、どう考えても不自由でしかない。部屋は全て手の届く範囲に物があるため荒れている。だけど、家で過ごしたい、というHさんの思いにお付き合いしている感じで、在宅で生き抜くという現実に衝撃を受けたわけです。それと、やることの手順がものすごく細いんです。
家に伺って直ぐに新聞を取りに行き、次はタオルを半分だけ濡らしてレンジで温め。濡れた面と乾いた面を作るわけですよ。医療でなら考えられないですよ。ホットウォーマーから抜き出せば良いんですから。タオルの半分だけチン。ビックリでした」
津田「在宅って、その人の拘りにどこまで付き合えるか? というのが限界だから。
Hさんは80歳台後半だったかなあ? でもね、本当にいろんなことを勉強させてもらえた人だった。夜に何度も電話があって、『トイレに行きたいんです』。行く。ポータブルトイレに座ってもらう。ベッドに戻ってもらう。
じゃあね! って帰ってる途中に電話が鳴る。また行く。すると、『エクレア食べたいんです』『眼鏡がないんです』とかね。だけど、あそこまで信念を持って『私がこの家を守るんです』って元気なときに言い続けた人だったからね」
鈴木「拘りの時間単位で例えれば、分単位で細かく決めんといけんのんじゃ。でしたね!
お風呂、入浴の手順も大変でした。2時間掛かりですもん。食事にしても、家の中にあるモノで作る。
考えようですが、ある意味、驚きと新鮮さとでカオスでしたね。とはいえ、ヘルパーさんの仕事を任せられているわけだったんですが、『私はいったい何をしとるんじゃろ?』という思いも湧き上がりました。
まだ看護師のプライドがフツフツとしてたんだと思います。振り返れば病棟勤務の頃、私たち看護師は看護師同士や医師には苗字や名前で呼びますよね。鈴木さんとか津田さんとか。
でも、介護職や看護助手さんたちには、“介護士さん”“助手さん‘’と呼称してたんです。苗字で呼ばなかったんですよ。変だなあ? とは感じていましたが、知らぬ間にヒエラルキーが出来上がってたんですね。その反省も踏まえてどの職種の人とも横並びで話をするよう心掛けています。今、現場での介護と看護の折り合い、お互いの落とし所なんかも課題として脳裏で模索中です。時代に取り残されないように」
野田→鈴木「ありきたりな質問ですが、なぜ? 看護師になったんですか」
鈴木「小さい頃から祖父母と一緒に住んでたんですよ。で、お祖母ちゃんなんですが、入退院を繰り返してたんですけど、母が常に介護・看病する日々でした。祖母は60歳台だったかな?
当時、介護保険は存在してませんでしたし、介護される人や介護する人へのサポートが充分ではなかったですよね。というか、誰も助けに来てくれませんでした。母は看護師免許を持っているわけでもなく、在宅介護という世界を独りで切り盛りしていたんです。なので、どこかに出掛けるときって病院なんです。私も母・祖母と一緒に出ますから。小さな医院へ行くと、看護師さんが『お利口だねえ』って声かけしてくれるんですね、優しく。
つまり、お出かけすると必ず看護師さんが私の周囲にいたわけで、看護師さんとの触れ合いは私の日常になっていたんです。母の介護も目の当たりに見てましたから、極自然に看護師への道へ進んでいった気がします。
中学生のとき『看護師になろう』と決意しました。で、高校から看護の学校へ行きました。
蛇足ですが、私の長女も看護学校に通ってます。あと3年で正看護師なる受験資格が取れるんです。ゆくゆくなんですが、私の夢は長女と看護師同士・同志として同じ土俵にいられたらなあ! なんです。長女、頑張ってます」
最後に
鈴木の話を聞いていると、特に、訪看と保育園で働く職員たちを護りたいという意識を強く感じた。つまり、鈴木が管轄している職場の職員を護りたい。
鈴木が語る。
「管理職として職員を護ることは当然です。だけど、職員家族も職員同様に大切にしたいんです。時には職員の子供が学校帰りにステーションで宿題をして遊びに行って夕方職員と家に帰るということもあります。
とはいえ、女性が多い職場です。職員が元気よく楽しく働くためには周囲のバックアップは不可欠です。特に、家族が応援してくれないとダメなんですね。私の場合、主人や義父母の寛容と援護がありましたから子育てと仕事の両立できました。感謝です」
津田も太鼓判を押す。
「真由美さんは、本当に安心して管理者を任せられる人」
一方、母としてのとても暖かい話を聞いた。長女・次女、2人ともに部活やクラブチームでソフトテニスをやっている。
次女は昨年、素晴らしいコーチや最高のペアに恵まれ中国大会まで勝ち進んだと教えてくれた。とても嬉しそうな表情だったのが記憶に新しいのだけれど、娘たちから嫌がられても彼女たちの試合には必ず応援に行く。場所が他県であっても。そして、母は恥ずかしからず高らかに宣言する。
「私、“追っかけ”なんです。娘たちを応援するのって最高に幸せです」
(野田明宏)